弁護士コラム - COLUMN

2014年8月

2014年8月11日 月曜日

「仙台七夕の花火」

長い間、東京で司法試験の受験勉強をしていた私は、
隅田川の花火が再開されても、見に行く余裕もありませんでした。
昭和61年秋に司法試験に合格し、昭和62年4月に司法研修所に入所し、
同年7月初めころ実務修習地である仙台に配属になりました。

 

私が、仙台で最初に居を構えたのは大橋側の花壇の先でした。
七夕の前日、アパートの前に椅子を引っ張り出して、
花火を見た時、空いっぱいに広がる花火に、
私は自分もこのような花火を見れる立場になったのだと感動しました。

 

それから仙台で弁護士になり、26年目が経ちました。
私のマンションからは、花火大会の花火がマンションの影になって
ほとんど見えませんでした。

 

ところが、今年の花火大会は、地下鉄の工事のために
花火の打ち上げ場所が移動になりました。

 

花火を打ち上げる当日、ベランダに出て花火があがる方向を見たところ、
なんと、花火がきれいに見えたのです!!

 

私は、花火を見て、仙台に来て最初に花火を見た時の気分になりました。
あれから、25年の月日が経ちましたが、
新たな気持ちで、これからを生きようとしている私にとっては、
一番の祝福ではなかったかと思います。

 

これからの自分が、一層頑張れるような気持でいます。

2014年8月8日 金曜日

「故廣崎尚孝氏のお別れの会に参加しました」

平成26年5月16日にご逝去なされた
故廣崎尚孝氏のお別れの会が
平成26年7月22日兵庫県西宮市甲子園にある
ノボテル甲子園でしめやかに営まれました。

 

故廣崎尚孝氏は、ニチイの専務取締役として
関西の経済界の重鎮でした。
私と故廣崎尚孝氏との関係は、
平成11年2月頃から同年12月頃まで、
損害賠償請求をしてきた相手方の代表者としての出会いでした。
私の故廣崎尚孝氏に対する最初の印象は、
大勢の人たちの一番奥にいて、
周囲の人よりも一段と高いところに座っているという印象でした。

 

その10ヶ月にも及ぶ損害賠償請求の交渉は、
当職の言い分をすべて故廣崎尚孝氏が受け入れたことにより、
金3億円の損害賠償が予想されたにも関わらず、
預り金3000万円の返還と金600万円の損害賠償金の支払いで終わりました。
相手方の有力者は、当職に敏腕だといいましたが、
私は故廣崎尚孝氏が、私を成長させたいとの気持ちからの
思いやりだったと思っています。

 

その後、年賀状の交換とお歳暮の交換をしていましたが、
ほとんどお目にかかることもありませんでした。
ところが、平成25年の元旦に故廣崎尚孝氏から
大きなハート形のアップルパイがお年賀として届けられました。
私は、少し戸惑いましたが、
どうしても会いたいという故廣崎尚孝氏の意思表示と考えて、
故廣崎尚孝氏に4月頃には神戸に遊びに伺いたいという連絡をしました。

 

私の手紙に喜んだ故廣崎尚孝氏は、
自分は車いすで介護の人が必ず付くけれども、
それでも良いかと何度も念を押してきました。

 

いざ私が伊丹空港に降りて、
故廣崎尚孝氏とお会いした時、
故廣崎尚孝氏は、車いすなどではなく、
ステッキをついてしっかりと立って、
私を迎えてくれました。

 

それから3日間、私とずっと行動を共にして
西宮のいろいろなところを案内して頂きました。

 

2人にとって、忘れられない時間だったと思っています。

 

その後、故廣崎尚孝氏からの便りは、
少しづつ体が弱ってきているのが、
手に取るように分かりました。

 

平成26年5月16日は、
私が故廣崎尚孝氏に紹介した弁護士が
仙台に講演に来るという日でした。
私が故廣崎尚孝氏の逝去を聞いたのは、
大阪を飛び立とうとしているその弁護士からでした。

 

故廣崎尚孝氏のお別れの会では、
ニチイの会長の挨拶が印象的でした。

 

それは、
「関西の経済人は、いい商いをしようとする人と、
お金儲けに走る人と両極端である。
私たちは、いい商いを目指した。」

 

故廣崎尚孝氏の座右の銘は、
受けた恩は、石に刻め
かけた情は、水に流せ
ということも初めて知りました。

 

振り返ってみると、私と故廣崎尚孝氏との交わりは、
一瞬でしかないと思います。
しかし、その一瞬は、私にとって極めて大切な瞬間だったと思っています。
改めて故廣崎尚孝氏のご冥福をお祈り申し上げます。